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第4回 会話劇の醸し出す生々しさの魅力
「生きる屍」という恐怖を題材にしながらも、『レッド ガーデン』は現在を生きる人間の問題を掘りさげようとしている。
それは「生と死」の対比に集約されたドラマづくりに現れ、制作方法もまた定石にとらわれない意欲的なものとなっている。
たとえば本作にはプレスコ方式(プレスコアリングの略)が採用され、あらかじめ声優の演技を録音して作画のタイミングの方を 後でそれに合わせるようにしている。これは絵の後に演技を入れるアフレコ(アフターレコーディング)とは逆の方式だが、
これもドラマを生々しく感じさせることにつながっていると思える。止まった絵、つまり死んだ絵を生きて動き出したように錯覚させる表現が アニメーションである。そのキャラクターの唯一「生身の部分」が「声」なのだ。だから、生きている人間が会話しているようなニュアンスを より濃くする手段としてプレスコが適切ということなのだろう。
それを念頭において『レッド ガーデン』のダイアローグ(会話劇)に集中すると、驚くべきことが分かる。要するに段取り臭さが感じられないのだ。 確かにふだんわれわれも、主語述語がきちんと通った文法どおりに組み立てて話したりしない。途中が飛んだり、もっとも言いたい単語が 先行したり、同じことを何度も何度も反復したり。会話としても、意味不明な部分はスルーされるし、相手が語り終わらないうちに 割って入ったり、ぜんぜん違うことを答えたり、急に黙ってみたりもする。
言葉はもともと論理的なものだが、人は単純な機械ではなく生き物なので「生理」が存在する。その生理の乱れが感情となって 言葉の論理をジャミングするのである。これが『レッド ガーデン』の「生っぽい会話」の正体である。この乱れは人と人の情が「絡む」ところでは 葛藤を招き、さらに生っぽさは増していく。このようにして、死んでいるアニメの絵は声によって生命を吹きこまれて生き生きとしていく。
あたかも4人の少女がアニムスとなり、「死から生き返った」のと同じように……。
悩みを抱える内輪同士でぶつかりあい、何も知らない家族やボーイフレンドと衝突したり、逆に心を開いたりする生々しいドラマ。
キャラクターの感情を乗せたプレスコ音声は物語と共鳴し、各キャラに輝きを宿す。同じく「生ける屍」であるリーズだけは 他の4人と異なる結末を迎えていくが、彼女だけがそうした運命となる理由も、もしかしたらそれほど「生きた言葉」を 交わしていなかったことによるものかもしれない……。
『レッド ガーデン』という作品は、こうした生々しい感触を通じて彼女たちの世界が現実世界とつながっているような面白さを伝えてくれる。
「生きる屍」になることはアニメならではの非日常的な事件だが、それを「親しい人にも言えない秘密ができてしまう」ととらえ直せば、
悩みや葛藤も共感できるものとして注意深く描かれていることにも気づくはずだ。
ぜひ会話の積みかさねが醸し出していく「生々しさ」をつかみながら見てみよう。そこからまた多くの魅力が引き出せるに違いない。
(以下、次回)
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氷川竜介
経歴:アニメ特撮評論家
・雑誌連載『ガンダムエース』『スカバー!ガイド』『特撮ニュータイプ』
・バンダイチャンネル:Webとメールマガジン、特集、みどころ紹介。
・ガンダムSEEDクラブ:コラム連載
・フレッツスクエア『機動戦士ガンダム』あらすじ、コラム
・DVD『機動戦士ガンダム』公式ホームページ あらすじ
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